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藤原氏の歴史【フェーズ5】近代への転換 ― 明治・大正・昭和(戦前)

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「藤原の子孫」が近代国家に組み込まれる

1868年の明治維新で武家政権は終わりを告げ、天皇を中心とする新政府が発足します。五摂家をはじめとする公家たちにとって、これは「政治への関与を禁じられた江戸時代」からの解放を意味しました。しかし彼らを待っていたのは、昔ながらの公家としての復権ではなく、まったく新しい身分制度への編入でした。

1884年、明治政府は「華族令(かぞくれい)」を制定し、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という西洋式の5階級からなる「華族(かぞく)」制度を作ります。五摂家は旧公家の中でも別格の家格として、最高位である公爵を与えられました。ここに、飛鳥時代から続いてきた藤原氏の家格が、近代の法律上の身分として正式に確定したのです。

近衛文麿|藤原鎌足から数えて46代目の宰相

この時代を代表する人物が近衛文麿(このえふみまろ)です。1891年、五摂家筆頭・近衛家に生まれ、実は藤原鎌足から数えて46代目にあたる名門の出身でした。父の死により12歳で家督と公爵位を継ぎ、東京帝国大学、京都帝国大学で学んだ後、1919年のパリ講和会議には随員として参加します。

1937年、45歳の若さで内閣総理大臣となった近衛は(伊藤博文に次いで史上2番目の若さでした)、その後3度にわたり合計2年9か月ほど首相を務めます。しかしこの間、日中戦争の全面化を止められず、日独伊三国同盟の締結、フランス領インドシナ南部への進駐など、日本を太平洋戦争へと向かわせる重大な決定に関わりました。対米開戦を主張する東条英機陸相を抑えきれず、1941年10月、開戦を目前にして総辞職しています。

戦後、近衛は政界に復帰し憲法改正に着手しますが、GHQから戦犯容疑者に指名され、1945年12月、出頭直前に服毒自殺しました。

今も残る、藤原家1300年の記録

近衛文麿は1938年、近衛家に伝わる古文書・典籍・美術品を保管するための施設「陽明文庫(ようめいぶんこ)」を京都に設立しています。これは藤原道長の日記「御堂関白記」をはじめ、千年以上にわたる一族の記録を今に伝える施設で、現在も京都市右京区で運営が続けられています。近衛文麿という人物が、政治の表舞台で日本を破局へ導く一方、自らの家に伝わる千年分の歴史を後世に残そうとしていたという事実は、対照的で興味深いところです。

フェーズ5のまとめ

  • 明治維新後、五摂家は「華族」という近代的な身分制度に組み込まれ、最高位の公爵を与えられた
  • 近衛文麿は藤原鎌足から46代目にあたる名門出身で、3度にわたり首相を務め、太平洋戦争に至る過程で重大な役割を果たした
  • 戦後、戦犯容疑者に指名された近衛は服毒自殺し、波乱に満ちた生涯を終えた
  • 一方で近衛家は陽明文庫を設立し、千年を超える一族の記録を守り続けている

次のフェーズ6では、戦後に華族制度そのものが廃止され、藤原の血を引く人々が現代日本でどのような形で存続しているのかを見ていきます。

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