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藤原氏の歴史【フェーズ3】摂関政治の衰退と五摂家への分立 ― 平安後期〜鎌倉・室町時代

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「藤原の血」が効かなくなった日

道長・頼通の栄華を支えていたのは、「娘が産んだ男の子が天皇になる」という外戚の仕組みでした。ところが頼通の後、この幸運が続かなくなります。そこに目をつけたのが、後三条天皇、そしてその子・白河天皇でした。

1086年、白河天皇は自ら退位して上皇(引退した天皇)となり、「院政(いんせい)」という新しい統治スタイルを始めます。上皇自身が実権を握り続けることで、摂関家の「外戚だから口を出せる」という立場そのものを無力化してしまったのです。摂関家は依然として高い家格を保ちますが、国政を動かす力は少しずつ上皇の側に移っていきました。

貴族の用心棒だった武士が、主役に躍り出る

院政期、上皇や貴族たちは自分の身辺警護や地方の治安維持を、源氏・平氏といった武士団に任せるようになります。最初は「雇われる側」だった武士たちが、次第に実力をつけていきました。

1156年の「保元(ほうげん)の乱」、1159年の「平治(へいじ)の乱」は、いずれも皇族・摂関家の内部対立に武士が動員された戦いでしたが、この2つの乱を勝ち抜いた平清盛が、貴族社会の頂点にまで昇りつめます。清盛は武士として初めて太政大臣に就任し、まさに藤原氏が独占していた地位を武士が奪う形になりました。

しかし平氏政権も長くは続かず、1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡。源頼朝が1192年に征夷大将軍に任命され、鎌倉に武家政権(幕府)を樹立します。ここに、貴族が政治を動かす時代は実質的に終わりを告げました。

番外編:もう一つの藤原一族、奥州藤原氏の興亡

実はこの時期、東北・平泉で独自の栄華を築いていた藤原一族もいます。奥州藤原氏です。藤原秀郷(ひでさと、平将門の乱を鎮圧した武将)の系統から出た藤原清衡(きよひら)が平泉を拠点に一大勢力を築き、中尊寺金色堂に代表される黄金文化を花開かせました。しかし1189年、源頼朝によって滅ぼされ、東北の藤原王国は姿を消します。中央の摂関家とは別系統ですが、「藤原」を名乗る一族が全国各地で独自の勢力を築いていたことがよくわかるエピソードです。

摂関家、5つに分裂する

政治の実権こそ失いつつありましたが、摂関家(藤原北家の嫡流)は「摂政・関白になれる家」として別格の家格を保ち続けます。ただし、この摂関家自体も内部で分裂していきます。

平安末期、摂政・関白を務めた藤原忠通(ただみち)の息子たちのうち、基実(もとざね)が「近衛家」を、兼実(かねざね)が「九条家」を興しました。さらに鎌倉時代に入ると、近衛家は近衛家と鷹司(たかつかさ)家に、九条家は九条家・二条家・一条家に分かれ、最終的に近衛・九条・二条・一条・鷹司の「五摂家」が成立します。鎌倉時代以降、摂政・関白はこの5つの家だけが独占的に就任できる、いわば「藤原本家の役員会」のような形になりました。

武家政権の下で ― 力はないが、格式は最高位

鎌倉幕府、続く室町幕府(足利氏)の時代、政治の実権は完全に武士に移ります。しかし五摂家をはじめとする公家たちは、朝廷の儀式や有職故実(ゆうそくこじつ、伝統的な作法・しきたり)、和歌などの文化の担い手として存続し続けました。武士たちも自らの権威付けのために、藤原氏や源氏の血筋を称することが多く、「藤原の名」は政治の実権を失ってなお、格式の象徴であり続けたのです。

フェーズ3のまとめ

  • 院政の開始で、外戚政治という摂関家の武器が効かなくなった
  • 貴族の用心棒だった源氏・平氏が実力をつけ、平清盛、続いて源頼朝が政権を握る
  • 東北では奥州藤原氏という別系統の藤原一族が栄えては滅んだ
  • 摂関家自体も近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家に分裂し、以後はこの5家だけが摂政・関白を独占
  • 政治の実権を失いながらも、公家としての最高格式は保ち続けた

次のフェーズ4では、戦国の動乱を経て江戸時代、五摂家をはじめとする公家たちがどのように存続していったのかを見ていきます。

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