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藤原氏の歴史【フェーズ2】摂関政治の確立と全盛 ― 平安時代前期〜中期(794年〜11世紀)

目次

都が変わり、藤原北家の逆転劇が始まる

794年、都は平城京から平安京(現在の京都)へ移ります。奈良時代に何度も政変で痛手を負った藤原家でしたが、ここから北家が驚異的な巻き返しを見せていきます。鍵を握ったのは藤原冬嗣(ふゆつぐ)。嵯峨天皇の信頼を得て、天皇の秘書室のような役職「蔵人所(くろうどどころ)」の初代トップ(蔵人頭)の一人に就任し、天皇との距離を一気に縮めました。

藤原良房:人臣で初めて摂政になった男

冬嗣の子・藤原良房(よしふさ)は、842年の「承和(じょうわ)の変」でライバルの伴氏・橘氏の勢力を削り、自分の甥にあたる皇子を皇太子に押し上げます。857年には太政大臣という最高位に就任します。臣下が正式な形で太政大臣に任じられたのは、これが初めてでした(奈良時代にも藤原仲麻呂や道鏡の例はありますが、特殊なケースとされています)。そして866年、「応天門の変」という宮中放火事件をきっかけにライバルの伴善男(とものよしお)を失脚させ、ついに人臣として初めて「摂政」の座に就きます。

摂政とは、天皇が幼いときに代わりに政務を行う役職です。それまでは皇族しか就けないポジションでしたが、良房はこの慣例を破りました。

藤原基経:「関白」という役職を作った男

良房の養子・藤原基経(もとつね)は、さらに一歩進みます。887年、天皇が成人していても政治の実権を握れる「関白(かんぱく)」という新しい役職を作らせ、自らその初代となりました。この過程では宇多天皇との間で「阿衡(あこう)の紛議」という一悶着もありましたが、最終的に基経の主張が通り、関白の地位が確立します。

菅原道真の悲劇、そして最後のライバル排除

基経の死後、宇多天皇は自分に藤原の血縁がないことを理由に、あえて摂政・関白を置かず、学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね)を重用します。しかし901年、藤原時平(ときひら)の策謀により道真は九州の大宰府へ左遷され、失意のうちに亡くなります(昌泰の変)。後に都で疫病や落雷が相次ぎ、人々は道真の怨霊を恐れて北野天満宮に祀りました。

さらに969年の「安和(あんな)の変」で最後のライバルだった源氏の一族が排斥され、以後、摂政・関白の座は完全に藤原北家の独占となります。

藤原道長:「この世は自分のためにある」と言い切った男

こうして整えられた摂関政治のレールの上で、最盛期を築いたのが藤原道長(みちなが、966〜1027)です。道長は娘たちを次々と天皇家に嫁がせ、そのうち3人を天皇の后(中宮)に立てる「一家三后」を実現。三代にわたる天皇の外祖父(母方の祖父)という前代未聞の立場を手に入れました。栄華の絶頂で詠んだとされる和歌は、望月(満月)に自らの人生をなぞらえ、何一つ欠けるもののない完全な満足を表現したものとして、今も摂関政治の象徴として語り継がれています。

藤原頼通:平等院鳳凰堂に込められた頂点と陰り

道長の子・藤原頼通(よりみち)は、父の跡を継いで約50年もの間、摂政・関白の座にあり続けました。宇治に建てた平等院鳳凰堂は、この時代の貴族文化・浄土信仰の美意識が結晶した建築として今も残っています。

しかし頼通には誤算がありました。父のように娘が産んだ男児が天皇になる、という運には恵まれなかったのです。天皇の外戚という立場を失ったことで、摂関家の権力基盤は静かに揺らぎ始めます。

フェーズ2のまとめ

  • 良房・基経が「摂政」「関白」という役職を発明し、皇族以外でも国政の頂点に立てる仕組みを作った
  • 承和の変、応天門の変、昌泰の変、安和の変と、他氏族を一つずつ排除していった
  • 道長・頼通の代で権力・文化ともに頂点を迎えたが、外戚という立場が崩れたことで陰りが見え始める

次のフェーズ3では、この摂関政治がどのように後退し、天皇自身が実権を握る「院政」、そして武士の時代へと移っていくのかを見ていきます。

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