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藤原氏の歴史【フェーズ4】公家としての存続 ― 室町・戦国・江戸時代

目次

戦乱の中で困窮する公家たち

室町幕府の時代も、摂政・関白の座は五摂家が独占し続けます。しかし1467年に始まった応仁の乱で京都が焼け野原となると、公家たちの経済基盤である荘園からの収入が各地で途絶え、五摂家をはじめとする公家社会は深刻な困窮に陥りました。中には都を離れ、地方の戦国大名を頼って身を寄せる公家も現れます(五摂家の一つ、一条家の分家が土佐国に土着した「土佐一条氏」はその代表例です)。

戦国大名たちの多くは、自らの権威を高めるために源氏・平氏・藤原氏といった名門の血筋を称しました。前回お話しした「源平交代思想」もこの流れの一つです。政治の実権はとうに武家のものでしたが、「格式」の裏付けとしての藤原の名は、この乱世でもまだ価値を失っていなかったのです。

秀吉、藤原氏の「養子」になって関白になる

この時代を象徴する出来事が、1585年に起きます。摂関家内部で、二条昭実と近衛信輔(のぶすけ、のちの信尹)が関白の地位をめぐって対立するという事件が起こりました。この仲裁役を買って出たのが、豊臣秀吉です。秀吉は「どちらが敗訴しても摂関家の痛手になる」と主張し、自分自身が関白になることを提案しました。

しかし関白は代々藤原氏の五摂家だけが就ける地位です。農民出身とされる秀吉には、その資格がありませんでした。そこで秀吉は、五摂家の一つ近衛家の当主・近衛前久(さきひさ)の猶子(ゆうし、形式上の養子)となり、藤原の姓を名乗ることで関白就任を果たします。日本の歴史上、約1000年続いた摂政・関白の系譜の中で、藤原氏の生まれでない人物が関白になったのは、秀吉と、その後継者となった甥の秀次のわずか2人だけでした。天下人ですら、最高権威を手にするには「藤原になる」という手続きが必要だったのです。

ちなみに、秀吉の「氏」はその後も変わっていきます。それまで名乗っていた平から藤原へ、そしてまもなく朝廷から新たに授かった「豊臣」へ。一方で苗字は、最後まで「羽柴」のままでした。秀吉が藤原だった期間は資料によって幅があり、数か月とする説から1年半ほどとする説まであります。

江戸幕府、朝廷と公家を法律で縛る

豊臣家が滅びた後、政治の実権を握った徳川家は関白の地位そのものには手を出さず、五摂家に摂政・関白の座を返上します。ただし徳川幕府は、朝廷と公家の行動を法律で厳しく縛りました。1615年、幕府は「禁中並公家諸法度」という17か条の法令を制定します。この法令は、天皇の第一の務めは「学問(先例に関する知識)」であるべきと定め、天皇や公家が政治に関わることを事実上禁止しました。

この統制の厳しさを象徴するのが、1627年の「紫衣事件(しえじけん)」です。後水尾天皇が独自の判断で高僧に紫衣の着用を許可したところ、幕府はこれを無効と宣言。抗議した僧は処罰され、天皇はこの一件をきっかけに退位に追い込まれました。天皇の勅許すら幕府がひっくり返せる ― これが江戸時代の朝廷と公家の実態でした。

実権を失い、文化の守り手として生きる

政治から完全に切り離された五摂家をはじめとする公家たちは、以後260年近く、朝廷儀礼、有職故実、和歌、蹴鞠といった伝統文化の継承者として存続します。実権はなくとも、天皇の代替わりや元号の制定など、国家の重要な儀式には欠かせない存在であり続けました。

フェーズ4のまとめ

  • 応仁の乱で公家社会は経済的に困窮し、地方に活路を求める家も出た
  • 豊臣秀吉は関白になるため近衛家の猶子となり、藤原氏を名乗った ― 天下人でさえ「藤原の名」を借りる必要があった
  • 江戸幕府は禁中並公家諸法度で朝廷・公家を法的に統制し、天皇の役割を学問・儀礼に限定した
  • 五摂家は政治権力を完全に失いながらも、文化・儀礼の担い手として江戸時代を生き抜いた

次のフェーズ5では、明治維新によってこの体制が一変し、五摂家が「華族」という新たな身分に組み込まれていく過程を見ていきます。

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